引退ではなく、次なる革新へ。
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スピーカーの巨匠Klaus Heinzが、ヘッドホンで目指した「純粋な音」

ある開発者がいる。その人物が関わったブランドの名前を挙げれば、プロフェッショナルオーディオの歴史そのものが浮かび上がる。ADAM Audio、HEDD Audio —— いずれもスタジオモニターとヘッドホンの世界に革新をもたらしたブランドだ。そして2025年、彼は再び新しい名前を掲げた。ArcTec Berlin。
「まだ作りたいものがある」。その一言が、新たな物語の始まりだった。

Klaus Heinz(クラウス・ハインツ)
ArcTec Berlin創業者。物理学者、ADAM Audio / HEDD Audio創設者。四半世紀にわたりプロフェッショナルオーディオの最前線で、AMT技術の研究開発をリードしてきた。
科学と音楽が交差する原点
Klaus Heinz(クラウス・ハインツ)氏の出自は、オーディオ業界においても異例と言える。1946年生まれ。父親は電子顕微鏡の発明者であり、ノーベル物理学賞受賞者のErnst Ruska(エルンスト・ルスカ)。父が「目に見えないもの」を見える形にした物理学者なら、息子は目に見えない「音」を、限りなく忠実に届けようとする物理学者だ。科学的な探究心は、いわば家系に刻まれたDNAだった。

クラシック音楽を愛しながら大学で物理学を学んだ若きハインツは、スピーカーの構造と音の関係に魅了され、1970年代半ばにはベルリンで「Audio Level」というHi-Fiショップを経営するまでになっていた。ある日、彼のショップに一組のスピーカーが持ち込まれる。米国ESS社のAMT-1——Oskar Heil(オスカー・ハイル)が発明した「Air Motion Transformer」ドライバーを搭載したスピーカーだ。
その音は、ハインツの人生を決定づけるものとなった。
Oskar Heilとの出会い — AMTの系譜
Dr. Oskar Heil(オスカー・ハイル博士 : 1908–1994)。ドイツ出身の物理学者であり、電界効果トランジスタ(FET)の先駆的研究やマイクロ波発生装置の開発でも知られる多才な発明家だ。彼が音響の世界に残した最大の遺産がAMT(Air Motion Transformer)である。
従来のスピーカーの振動板がピストンのように前後に動いて空気を押すのに対し、AMTはアコーディオンのように折りたたまれた振動板が横方向に空気を絞り出す。空気は振動板の5倍の速度で加速される——「Air Motion Transformer(空気運動変換器)」という名の由来だ。1972年に米国ESSがAMT-1スピーカーとして初めて商品化し、その高域の精緻さでオーディオファイルを魅了してきた。

AMTの可能性に衝撃を受けたハインツは、1985年にカリフォルニア州サンマテオに住んでいたハイル本人のもとを訪ねる。そこから数年にわたる師弟関係が始まった。ハインツは後に「オスカーと話していて最も魅了されたのは、彼が本当に独創的に考える人だったということだ。彼は常に、交流電流から音を生み出す新しい方法を探していた」と回想している。
しかし、二人の関係にはやがて緊張が生まれた。ハインツは師のAMT設計を「もっとコンパクトで信頼性の高いものに改良したい」と考えた。しかしハイルは自身のオリジナル構造に固執し、改変を受け入れなかった。KMR Audioのインタビューで、ハインツ氏本人がこう語っている——「私はオスカーに会いに行き、自分のアイデアに取り組もうとしたが、特許が問題だった。彼は自身のオリジナル構造を主張した」。
さらに、後にハインツがAMTをコンパクト化して製品化した際、ハイルは自分の発明が「変質させられた」と感じ、快く思わなかったという逸話も伝えられている。偉大な発明者への敬意と、技術者として「超えなければならない壁」——師弟の葛藤が、後のハイエンドオーディオ技術の礎となった。
ADAM Audio — 特許失効が拓いた革新
ハイルの特許が生きている限り、大胆な改良を製品化することはできなかった。しかしハインツは手をこまねいていたわけではない。1970年代から80年代を通じて、新素材を活用しながらAMTのコンパクト化・改良を研究し続けていた。
1990年代初頭に基本特許が失効し始めると、ついにその成果を製品化する道が拓ける。ハインツが開発したのが、ART(Accelerating Ribbon Technology)ツイーターだ。ネオジム磁石と軽量なカプトン・フォイルを用い、ハイルのオリジナル設計——ホーン状のポールプレートを通す大型ダイポール構造——を劇的にコンパクト化。従来の1インチ・ドームツイーターと置き換え可能なサイズに収め、しかもAMT由来の高域再現力をそのまま維持することに成功した。
1999年、ハインツはこの革新的なドライバーを武器にADAM Audioを創設。ARTツイーターはプロオーディオの世界に新しいカテゴリーを切り拓いた。特にADAM A7Xは世界中のレコーディングスタジオに導入され、コンパクトモニターの業界標準となった。
なお、2004年中頃にはハイルのAMTに関するすべての関連特許が完全に失効。これによりELAC、Mundorfなど多くのメーカーもAMT型ドライバーを自由に製造できるようになり、業界全体が一変した。しかし、その流れを最初に切り拓いたのはハインツだった。ハイルが種を蒔き、ハインツが実を結ばせたのだ。
HEDD Audio — 息子との新たな船出
2014年、68歳のハインツはADAM Audioを離れる。しかし引退という選択肢は彼にはなかった。「まだ作りたいものがある」——その思いを胸に、2015年、息子のDr. Frederik Knop(フレデリック・クノップ : 音楽学博士・マスタリングエンジニア)とともに新ブランド「HEDD Audio」(Heinz ElectroDynamic Designs)を設立する。
HEDDはスタジオモニターを主軸とするブランドだ。ADAM Audio時代からさらに進化させた自社製AMTドライバーと、新開発のハニカム素材ウーファーを組み合わせたモニタースピーカーを、ベルリンの工房で全数手作りで生産。TYPE 05、07、20、30といったラインナップは、世界中のプロフェッショナル現場で高い評価を獲得した。
そのラインナップの中で、ヘッドホン愛好家の間でとりわけ大きな反響を呼んだのが「HEDDphone ONE」(2020年発売)だ。スピーカー用AMTの折りたたみ構造ではフルレンジ再生に必要な低域が出せないという課題に対し、ハインツは「VVT(Variable Velocity Transform)」— 折りたたみの幅と深さを可変にする技術を開発。10Hzから40kHzまでの帯域を単一のAMTドライバーでカバーする、フルレンジAMT型ヘッドホンが誕生した。
その後、ハインツは70代を迎え、HEDDのエンジニアリング主導を長年の同僚であるDmitry Grigoriev(ドミトリー・グリゴリエフ)氏に移譲。
しかし、その手はまだ止まらなかった。
なぜAMTではないのか — ArcTec Berlinの選択
「メモ帳にはまだいくつかのプロジェクトが残っていて、取り組むのが楽しい。それが本当に市場を豊かにできると信じる限り、形にしたい」 — Klaus Heinz, STEREO誌インタビューより
2025年、ハインツは三つ目のブランド「ArcTec Berlin」(AT-B Audio GmbH)を立ち上げる。
ここまでの物語を追えば、ArcTec Berlinの最初の製品もAMT型ヘッドホンになるのが自然な流れに思える。しかし、AB 92にAMTドライバーは搭載されていない。採用されたのは、平面磁界型だ。

STEREO誌のインタビューで、ハインツはその理由を率直に語っている。重量だ。AB 92は軽量化のためにプラスチックを多用するのではなく、高品質なアルミニウムを主体とした堅牢な筐体で仕上げることを選んだヘッドホンである。もしドライバーをAMTで設計した場合、十分な感度を得るためにはドライバー自体が大きく重くなるか、あるいは消費電力が大きくなり、ヘッドホン全体の重量が600gに向かって増加してしまう。装着快適性が犠牲になる。
そこでハインツは、AMTや他の平面磁界型ヘッドホンを数多く試聴し、実験を重ね、音楽的な派手さよりも長時間リスニングに適した自然さを追求する方向性を模索した。その結論として選ばれたのが、純銀の導体トレースを載せた超薄膜による平面磁界型設計だった。
オスカー・ハイルから受け継いだAMTの根底にある思想——軽量な振動膜で空気を効率的に動かすという原理——は、形を変えてAB 92にも息づいている。1.5マイクロメートル未満の振動板、純度99.99%の銀による導体、92mmの大口径。それはAMTの後継ではなく、AMTと長年向き合ってきた物理学者が到達した、もうひとつの最適解だ。
2025年5月、欧州最大級のオーディオショー「High End Munich」でワールドプレミアを果たした。
AB 92 — 「AirBorne」が意味するもの
「AB」はAirBorne——空気に浮かぶ、という意味を持つ。完全開放型の設計により、振動板の背面から放射される音を一切遮ることなく自由に解放。反射や共振から解き放たれた、純粋で自然な音の再現を追求したヘッドホンだ。

AB 92の核心はその振動板にある。厚さ1.5マイクロメートル未満——人間の髪の毛の50分の1以下という極薄の膜体に、純度99.99%の銀の導体トレースが載っている。
なぜ銀なのか。ハインツの答えは、物理学者らしく簡潔だ。「周期表を見れば、導電率と比重の両方で良い値を持つ金属として、銀が明確な勝者です」。導電率6.30×10⁷ S/m、密度10.49 g/cm³という銀の物性は、振動板上の導体材料として理想的なバランスを提供する。この超薄膜振動板により、周波数特性は5Hz〜46kHzに達し、インパルス応答の正確さと高感度を両立している。

筐体はアルミニウムの精密削り出しを主体に構成され、ブラックアノダイズとガラスビーズブラスト仕上げが施されている。トランスデューサーを収めるアルミリングは、スピーカーにおけるエンクロージャーと同じ役割——音響的に不活性な基盤を提供し、リンギングや共振を排除する。
そしてハインツが設計上の基本原則として掲げるのが、「すべてのパーツが交換可能であること」。ベルリンの工房で組み立てられた製品は、同じ工房で、あるいは他の修理拠点で分解・修理が可能だ。使い捨てではなく、使い続けることを前提にした設計哲学が、製品全体に貫かれている。
「その音が、すべてを証明する。」
ArcTec Berlinの公式サイトには、英国QUADの創業者Peter Walker(ピーター・ウォーカー)の言葉が引用されている。「The proof is in the listening」—— その音が、すべてを証明する。
STEREO誌のレビューは、この哲学が空疎な理念ではないことを裏付けている。100点満点中92点のサウンドスコアとともに、「空気感があり、ダイナミックで、トーン的に完璧」と評価。クラシック音楽における空間定位の精度、ロック音楽でのエネルギッシュなダイナミクス、電子音楽での細やかなテクスチャー描写——ジャンルを問わない対応力が確認されている。
「ヘッドホンの再発明ではない。しかし、極めて印象的なステートメント(最高傑作)である」 — Michael Lang, STEREO誌編集部
四半世紀を経て、辿り着いた音
1985年にサンマテオでオスカー・ハイル博士と出会って以来、クラウス・ハインツの人生はトランスデューサーの革新に捧げられてきた。師の発明をコンパクト化してADAM Audioで世界中のスタジオに届け、息子とともに立ち上げたHEDD AudioでAMTをさらに進化させ、そしてArcTec Berlinで——これまでの経験すべてを投入した、新たなアプローチによるヘッドホンに到達した。
彼が「まだ作りたいものがある」と語った情熱は、極薄の純銀振動板を通じて、極めて自然で空気感に満ちたサウンドとして結実した。
巨匠が仕掛ける、ヘッドホンリスニングの新たな境地。
その証明となる「音」が、ついに日本へ届く。

ArcTec Berlin AB 92 主要スペック
ドライバー方式 | 平面磁界型、オープン型 |
振動板口径 | 92mm |
振動板厚さ | 1.5μm未満(純銀導体トレース) |
周波数特性 | 5 Hz – 46 kHz |
感度 | 90 dB SPL/mW(105 dB/1V) |
インピーダンス | 33Ω |
THD | 1%未満(94 dB SPL時) |
重量 | 540g |
筐体 | アルミニウム主体 (ブラックアノダイズ+ガラスビーズブラスト) |
生産地 | ドイツ・ベルリン |
市場想定価格 | 495,000円(税込) |
Klaus Heinz氏 — 経歴
1946 | ベルリンに生まれる。 |
1970s | ベルリンでHi-Fiショップ「Audio Level」を経営。ESS AMT-1との出会い |
1985 | カリフォルニア州サンマテオでAMT発明者Oskar Heil氏と面会。 数年にわたる師事 |
1980 – 90s | 新素材を用いたAMTのコンパクト化研究を継続 |
1999 | ADAM Audioを創設。ART(Accelerating Ribbon Technology)ツイーターでスタジオモニター市場を革新 |
2010s | ADAM A7Xがコンパクトモニターの世界標準に |
2014 | ADAM Audioを離れる |
2015 | 息子Dr. Frederik Knopとともに HEDD Audio(Heinz ElectroDynamic Designs)を設立 |
2020 | HEDDphone ONE発売——フルレンジAMT型ヘッドホン |
2025 | ArcTec Berlin(AT-B Audio GmbH)を設立。平面磁界型ヘッドホンAB 92を発表 |
2025.5 | AB 92、High End Munich 2025でワールドプレミア |
2026.2 | ドイツ「STEREO」誌にてサウンドスコア 92/100 を獲得 |
参考資料・出典
本記事は以下の公式情報およびメディア記事をもとに構成しています。














